翠雨のメモワール 第2話

 その女性がまとう空気は、意気軒昂なんて前向きなものではありませんでした。長い前髪で片目を隠したその姿は、写真で見たものとは見た目も雰囲気も別人。敵意さえ感じるその鋭い気は、ずっと五月雨のことを射抜いていました。
 それが、暁山二等海尉と五月雨との初めての対面だったのです。

「以上をもって君を第一艦娘特務部隊の隊長、提督に任命する」
「はっ。慎んで拝命いたします」

 美しいとすら思える敬礼と共に、暁山二尉の凛とした声が空気を震わせました。
 艦娘という秘匿されていた存在。それらを束ねる提督という聞き慣れない言葉。その地位への就任。そして二等海尉でありながら一等海佐と同等の権限の附与。彼女にとって全てが困惑に値する情報のはずです。それでも暁山提督は表情一つ変えずにその任を受けました。
 それは五月雨にとって嬉しいことであるはずなのに、どうしてか彼女の胸は高鳴りません。だからか彼女は先ほどから俯いてばかりいて、声のひとつも発せられませんでした。
 待ち侘びていた初対面であるのに、なんだか、写真で見た暁山継美に会った気がしなかったのです。五月雨の目を惹きつけた紅色の瞳は、左半分を覆う前髪に完全に隠れています。写真越しに感じた覇気は、重苦しい緊張感を放つ怒気へと変貌を遂げていました。
 何が彼女をそうさせたのか知らぬ五月雨は、ただ不安に駆られるばかり。まともに提督の顔も直視できぬまま縮こまっていると、こほん、と小さな咳払いが彼女をふと現実へと引き戻しました。
 海上幕僚長のものでした。落ち着きなさい。そう言われているように五月雨には思えました。

「詳細は書類に書き留めておいた。長旅で疲れているだろう。部屋を用意してあるから、今日はもう休みなさい」

 穏やかな、しかし有無を言わせない物言いでした。
 暁山提督は鋭い敬礼で応え、部屋を退出しようとします。それを呼び止めたのは、またも海上幕僚長でした。

「待ちなさい。五月雨に部屋へ案内させよう」

 そう言って、「行ってくれるかね」と五月雨の肩を叩きます。
 五月雨は救われる想いで「はい」と大きく頷いて笑いました。そして暁山提督の一歩後ろに連れ立って、部屋を後にしました。

 双方ともに言葉はなく、ただ綺麗に磨かれた廊下を歩く一定の音が虚しく響いています。
 身長で劣る五月雨は暁山提督の歩幅に合わせられず、置いていかれぬように背中を追うので精一杯。提督は提督で脇目も振らずカツカツと足音を立てて歩いていきます。これではどちらが案内しているのかわかったものではありませんでした。
 五月雨は酷く損傷して曳航されているような、そんな惨めな気持ちになっていました。操舵されるのは望むところですが、ただ引かれるままに何もできないでいるのは、同じ海路を往くのでも全く違います。少なくとも五月雨の魂はそれを受け入れられませんでした。
 だからなんとか呼び止めようと提督の袖を掴み、声を掛けようとして……また別の声に上書きされました。

「あいつだろ、例の赤目の……」
「特殊部隊長に昇進だと。今度は何のコネだか」
「バケモノに馴染むのはバケモノだけって事だろ」

 それは先ほどの海上幕僚長の言葉とは何もかも正反対の性質でした。
 聞こえるように、でもあくまで話しかけているわけではないとする姑息さ。ただ他人を貶めるためだけの言葉。明確な悪意。
 五月雨にも、悲しいことに覚えがありました。この姿になって、人前で力を使った時に向けられた畏怖の念。人に似て人ならざる容姿を奇異の目で見られている時、何度か心が折れそうになりました。此処に居てはいけない気がしました。
 今もそうです。しかし、実際のところ本当にそうなのかもしれない、と五月雨が過去に引っ張られそうになった時、逆方向へと腕を強く引かれていました。

「止まるな。聞くに値しない」

 振り返った赤い瞳と目が合った一瞬が、五月雨には永遠に思えて。
 その瞳に宿った強さは、あの日写真で見たものと同じで、それがとてもとても嬉しくて。
 提督の瞳に映る自分が、確かに此処に居ることを証明してくれているようで。

 五月雨は安堵して、放心して、それで、足がもつれてしまいました。
 簡単な力学上のお話ですが、急に腕を引っ張られた側がバランスを崩せば、それは間違いなく転倒へ一直線です。そしてこれは暁山提督にとっても意外な事だったのですが、彼女は半分自分のせいで転ぼうとしている少女をそのままにしておけない人物でした。
 結果として二人重なって床に倒れ伏してしまい、当然周囲からは嘲笑が沸き起こります。助けの手など、差し出されるはずもありませんでした。
 素早く起き上がった暁山提督が五月雨を抱え起こしたのは、そういった周りへの敵愾心からでありました。けれど、五月雨にはその姿がとても頼もしく思えたのです。

 手を引かれ、足早にその場を去りながら、五月雨の瞳からはらはらと雫が生まれては頬を伝って落ちていきました。悲しいのか、痛いのか、嬉しいのか、もしくはその全てか。誰にもわからぬまま泣く少女と、それを疎ましいと思いつつも掴んだ腕を離さず進む女性。
 お互いまともな会話もないままに、二人の関係はこうして始まったのでした。

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 翠雨のメモワール #1.5

 暁山継美という女性を生まれながらの天才と称する者は少なくありません。
 実際、彼女の家柄は由緒ある名家で、暁山家には歴代総理大臣や大企業の理事、財政界に太いパイプを持つ人物が名を連ねます。その一番若い代で次世代のリーダーと目されていたのが継美です。
 彼女は両親の「誰にも負けてはならない」という教えを忠実に守る子供でした。誰よりも努力し、結果も出し、賞賛されました。その紅色の片目は尊敬と畏怖を集める象徴でした。
 しかし、それも彼女の両親を含む親族が次々と亡くなってからは一変しました。暁山の名が実質廃れても、彼女は変わらず努力し、勝ち続けました。けれど集まるのは嫉妬と軽蔑へと変わりました。赤い瞳は嘲笑と侮蔑の的になりました。世界が敵に見えました。
 だから、彼女は全てに勝つと誓ったのです。
 そんな時、まさに世界の敵である深海棲艦が現れ、人々の暮らしは大きく脅かされるようになります。防衛大学に通い将来の官僚を目指していた継美も、これを機に本当の戦いへと身を投じることになりました。相手が人であろうと、未知の何かであろうと、負けてはならない。戦って勝ち続けることでしか、彼女は生きることを知らないのです。

 そしてここにまた一つの転機が訪れます。
 新設される特殊部隊の隊長に任命されるという話が継美に届きました。海上幕僚長から直々に申し渡されるとのことで、彼女はいま内陸を新幹線で移動しています。
 断る理由もその必要もないことを自覚している彼女は、この異例な事態に対しても動揺は見られません。ただ与えられた場所で戦い続けることになんの疑問も抱かぬまま、彼女の心の代わりのように列車は揺れ動いていました。

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2023年9月2日